河上 彦斎(かわかみ・げんさい、1834~1871)

熊本城下新馬借町(現・熊本市中央区新町)出身。
 
藩校時習館に通い、嘉永2年(1849年)、16歳の頃に熊本城下花畑屋敷(現・熊本市中央区桜町一帯)の御掃除坊主となる。この頃、宮部 鼎蔵轟 武兵衛らと出会い、茶坊主教育の一環として茶道、華道を学ぶ傍ら、兵学を宮部に、儒学を轟に学ぶ。
 
嘉永4年(1851年)、藩主・細川 斉護(なりもり)の参勤交代の供に加わり、江戸へ出る。そのまま、熊本藩家老・松井佐渡(章之)付の坊主に昇進。嘉永6年(1853年)の参勤交代にも従う。
同年、ペリーが浦賀へ来航。熊本藩は幕府の命令を受け、本牧峠(現・横浜市中区)の警備を担当する。藩主・斉護自ら出陣し、彦斎は茶弁当係としてその供をしている。 この時、彦斎は黒船の脅威を目前にし、武芸ができなければ主君の側にいても役に立てないことを痛感したのだという。
 
翌安政元年(1854年)、師である宮部が江戸に来る。彦斎ら参勤交代組は入れ違いで帰国する予定であったが、吉田 松陰らのアメリカ密航未遂(下田踏海事件)に宮部・永鳥 三平佐々 淳次郎が連座し、藩主・斉護は幕府の引き留めを受けて滞在が長引く。彦斎もまた、安政2年(1855年)まで江戸にいることとなった。
この間、安政の大地震が起こっている。地震時、彦斎は藩邸におり、倒壊こそ免れたものの壁や軒が崩れ、人々がパニックになる中で、一人水桶と柄杓を携えて邸内の各詰所にある火鉢の一つ一つに水を注ぎ、火を消して回ったのだという。茶坊主には惜しい男だと感心された。
 
帰国後、林 桜園「原道館(げんどうかん)」に入門する。同期にのち神風連の乱を起こす太田黒 伴雄加屋 霽堅(はるかた)らがいた。この時、神国思想を得るとともに、松陰の実現できなかったことを自身が実現すると宣言したそうである。この頃より、各国の尊皇攘夷志士と密に連絡を取り始める。
 
安政5年(1859年)、再び参勤交代に伴い、江戸に出る。在府中の安政7年(1860年)、桜田門外の変が起き、時の大老・井伊 直弼が殺害される。井伊を殺害した水戸浪士は熊本藩上屋敷(現・丸の内オアゾ)に逃げ込むが、そこには彦斎がいた。彦斎は冷静に対応し、医者を呼び、茶の湯の接待をするなどして水戸浪士を丁重にもてなしたのだという。彦斎は尊皇攘夷運動に身を投じた彼らに深い感銘を受けていた。
 
その翌月には藩主・斉護が逝去している。彦斎は新藩主である細川 慶順(よしゆき)に従って熊本へ戻った。

文久元年(1861年)に清河 八郎が熊本へ来る。清河は玉名の松村 大成宅に議論の場を設けるが、その手配をしたのが他ならぬ松村とこの彦斎である。彼らの奮闘も虚しく、肥後の志士と清河の議論は物別れに終わる。しかし、彦斎はなおも宮部を説得し、宮部も遂に動き出す。肥後の尊皇攘夷運動が再び動き始めた。
 
文久2年(1862年)、翌年の禁裏守護(京都御親兵)の徒士の一人にいち早く選ばれる。文久2年のうちより藩主慶順の弟・長岡 護美(もりよし)について京に上る。諸藩の有志と積極的に交わり、武市 半平太久坂 玄瑞桂 小五郎らとも議論している。
 
文久3年(1863年)には禁裏守護の幹部に選ばれるが、八月十八日の政変が発生。彦斎は脱藩し、長州と行動することを選ぶ。七卿とともに長州へ去ると、今度は九州の情勢探索に奔る。
 
元治元年(1864年)、池田屋事件が起こり、宮部・松田 重助が死ぬ。彦斎は急遽上京し、当時新選組に志士狩りを命じた黒幕であると噂されていた佐久間 象山を暗殺する。更に禁門の変が起き、出陣した肥後勤皇党員の殆どが死ぬ。彦斎は長州藩家老・国司信濃隊に属して戦い、敗れた後は長州に潜み、第一次長州征討の間は七卿落ちした公卿の護衛を務めた。
 
元治元年(この時は1865年になっている)に高杉 晋作功山寺にて挙兵する。彦斎はこれに呼応し、奇兵隊に協力して長州藩の藩論統一(倒幕)に貢献した。この時奇兵隊の総帥に推挙されたことが、彦斎斬首の遠因となる。また、高杉・桂・公卿の三条 実美らは攘夷から開国へ方針を転換しており、関係に溝が生じていた。
 
慶応2年(1866年)、第二次長州征討。大島口(周防大島、南)・芸州口(広島、東)・石州口(島根、北)・小倉口(福岡、西)の四面を囲まれた四境戦争では、芸州口と石州口を担当する。どちらも長州軍の勝利であった。しかし、小倉口にて高杉らと熊本藩が戦っているとの報を聞くと、攘夷のためではなく毛利家のために戦い、主君である細川家に刃を向けていた自分に愕然とする。すぐさま帰国し、かつて仕えた松井佐渡に説得のための面会を申し出るも、許されず投獄。明治維新まで獄中生活を送る。
 
慶応4年(1868年)2月、出獄。熊本藩は時習館党から実学党へ政権が移り、主権も実質的に藩主・慶順から慶順の弟・長岡 護美へ変わった。明治政府への登用を頑なに拒否した彦斎だが、護美の願いは聞き、「高田 源兵衛(こうだ・げんべえ)」への改名と軍防事務局輔として奥羽越列藩同盟を説得することを了承する。佐々とともに東北へ向かい、途中で寄った松代藩で佐久間 象山の部下たちと会っている。この時、象山の部下から「象山の遺児である恪二郎が仇討ちのために貴藩の河上 彦斎を探している」と言われたが、彦斎は平然と「拙者も彦斎をよく知っている。一日も早く本懐を遂げてもらいたいものだ」と返し、佐々を呆れさせたのだという。
説得虚しく奥羽戦争が開始され、熊本へ帰国すると、大分の鶴崎(熊本藩飛び地)に派遣される。明治政府および熊本藩政府に対して反抗的であると
いう理由から、へき地に遠ざけられたのであった。
 
明治2年(1869年)、鶴崎の地にて「有終館」を設立。時習館党の有志と手を組み(時習館党は佐幕攘夷の思想を持っていたため、幕府瓦解後は攘夷という点で彦斎と意見が一致していた)、攘夷のための文武教育をここで行う。この頃の彦斎は大攘夷の思想を持っており、朝鮮・大阪・北海道との交易に着手する他、ロシアと同盟を組む重要性を訴えていたという。ところが、大楽 源太郎元奇兵隊員が長州で脱退騒動を起こし、彦斎に挙兵を呼びかけてきた。彦斎は断るが、逃げてきた彼らを匿ったため、新政府から見た反逆者としての疑惑がなお一層濃くなった。
 
明治3年(1870年)には有終館を解体させられ、熊本へ戻る。私塾「手取塾」「春日塾」を熊本市内で開くも、監視の目が強くなり、閉鎖。遂に逮捕される。
 
明治4年(1871年)、東京に護送。松陰と同じ日本橋小伝馬町にて斬首される。享年38。

【河上 彦斎ゆかりの場所(京都府以外)】
河上彦斎生誕の地(熊本市中央区新町3-10-45)
桜山神社(神風連資料館敷地内、熊本市中央区黒髪5-7-57)
池上本門寺(東京都大田区池上1-1-1)

【主な参考資料, HP】
中沢圣夫『史説 幕末暗殺』(1971)
海音寺潮五郎『幕末動乱の男たち』(1975)
www.神風連.com→
http://www.shinpuren.com/





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