幕末熊本最前線 物見櫓

幕末熊本女子でうく(ばくじょ)と戦国刀剣女子はべろん(せんじょ)による、 明治維新に貢献した熊本の志士たちをもっと知ってもらって盛り上げよう!という企画です。

永鳥三平

らくがき

永鳥三平しゃん

1
以前描いた尾形百恵ちゃんの落書き↓が先生に気に入ってもらえたので調子のって描いてみた。もってるのは今はべろんが食べたいストロベリーチョコドーナッツ。
に、しても、永鳥さん難しい。特に髪型ああああ。尾方ちゃん2
尾方ちゃん3


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永鳥三平 二

※こちらの記事はDEUKUのブログ「植民所在地3丁目」の2014年8月8日の記事を再編集し載せております。
植民所在地3丁目とは内容の異なる部分がございます。また、本記事では肥後の志士にまつわる逸話を記述しております。
歴史資料として参考にする場合は、その1のみにとどめておいてください。
(創作物等に利用する場合はその限りではございません)

その1はこちら  永鳥三平



今回は、資料を元にした小説より奇なる永鳥 三平伝説について語りたいと思います。


まず、永鳥 三平の人物としましては、吉田 松陰とか高杉 晋作とか、いわゆるそっちの人たちと同種の人間です。つまり、変人です。

ちなみにこの人も宮部や松田同様、吉田 松陰とはペリー来航前後から親しくしており、1854年にはペリー艦隊に密航しようとした松陰を見送っています。
松陰のアメリカ密航に際しては、事前に長州人(来原 良蔵ら)と肥後人(宮部・永鳥・佐々松田)に相談があったようで、宮部らは必死に松陰を思い止まらせようとしたそうです。
しかし、そんな中、意見を聞かれ



永鳥 「うん、別にいんじゃない?」



一同 「永鳥イィィィィィィ!!!!」



松陰は嬉々として計画を実行に移し、結局牢獄に繋がれることになりますが、永鳥はその前後に資金援助をしたり(兄に出させた金でですが)罪が重くならぬよう根回しをしたりして、松陰をフォローしています。(ちなみに、この件で松陰の師匠である佐久間 象山は逮捕宮部も重要参考人として取調べを受けるなど、周囲はものすごいとばっちりを受けています)



さて、そんな度量が大きいのか単に適当なのかわからない(まさに松陰型としかいいようのない)永鳥、肥後勤皇党の支柱である林 桜園の原道館には1851年に入門しています。しかし、その前に、彼は原道館とは別の流れを汲む勤皇流派をもつ兄(松村 大成。医師で、肥後勤皇党のパトロンとなった)の下で学んだ生粋の勤皇家で、宮部は永鳥たちの一派(これを「富田派」といいます)と原道館派を統一させることで、肥後勤皇党を生み出します。

どんどん話が眠くなる方向へ寄っていっているので戻したいですが、彼の口ぐせは

永鳥 「オレは政治と戦と女が大好きなんだよ


だったらしく、しかもそれに加えて 酒も大好き で、八月十八日の政変で彼は逮捕され、1865年に獄中で病死しますが、それは酒の飲みすぎからきているんじゃないかとさえいわれています。



他にも逸話はいろいろあって、



かわいがっている姪がいて、袂から菓子を取り出しては投げ与えていたがなぜか食べかけだったり、

よその家に土産物を持って行く際に、なぜかその土産物を食いながら行き、着いた時には当然食べかけ
ひどい時には

永鳥 「食べてしまったから もうないよ
ということが しょっちゅう だったらしいです。まじクレイジーです。



それだけでなく、生活そのものも破滅型だったらしく、常に無一文で世界地図だけを懐にしのばせ
「志士と放蕩児のどっちが本当の姿なのかわかんない」
と周囲に言わしめ、
「激薬先生」
のあだ名で呼ばれていたらしいです。
彼はペリー来航直後には既に志士活動を始めており、1854年には水戸へ行き、将軍継嗣問題が一橋派へなびくよう裏工作を開始しています。この頃、梅田 雲浜と親しくなり、



永鳥 「ん?肥後は長州と並ぶ勤皇藩になったよ」



と、まるで息を吐くように大嘘をつき、肥後藩は慌てて彼を国許に呼び戻し蟄居処分にします。永鳥と肥後藩のいたちごっこの始まりで、罪人扱いになっても痛くもかゆくもない永鳥はまた何かやらかし、そのたびに肥後藩が禁固処分にし、をくり返しています。ここがもう、松陰や高杉そっくりです。そう考えると、肥後藩もけっこう心が広いよね。



後藤 是山の 『肥後の勤皇』(大正4年刊) という本には「桜園門下の三強」という項目があり、これは桜園門下のトップスリーである宮部・永鳥・轟 武兵衛を指すそうです。



三強は年齢的には 轟 > 宮部 > 永鳥 の順で3歳ずつ違ったそうですが、頭脳的には 永鳥 > 宮部 > 轟 の順で優れていたようで、永鳥には頭脳派の一面もありました。現に、1861年に清河 八郎が薩摩島津が京へ倒幕のため挙兵するという話を持ちかけてきた時、信じなかったのは誰もがですが、永鳥は清河がこれから島津を説き伏せるのだと見抜き、事態がどう変わるかを見届けることは必要だと言って薩摩への偵察を促しています(清河からは「元来虚容のみの人物にて一向に信ずべき風体の者にあらず」とちょんけちょんにけなされていますが)。
宮部の徳行、永鳥の智略、轟の豪胆」 と呼ばれていたそうです。



そんなテキトーながらも才能に恵まれている永鳥にライバル心を燃やしていたのが 豪胆の轟 武兵衛 で、何かと永鳥に突っかかり、張り合おうとしていたとのこと。

一方、永鳥の方はというと
江戸住まいの轟の家に無一文で転がり込み、兄に金を出させるだけでは足りず轟の小遣い銭をせしめ、轟の布団に勝手に入り、枕を横に並べ



永鳥 「今夜は語りたい気分だから寝かさないよ」



と、言って寝物語に夜を更かした、なのだそう。なんというジャイアニズム

こんな漫画みたいなこと、あるのでしょうか。



しかし、それでも永鳥は肥後人には多くない非常なカリスマ性と説得力を併せ持っていた人だったようで、ひとたび論ずればみんな永鳥の話に聞き入り、心服したそうです。
松陰とともにペリー艦隊に密航しようとした金子 重之輔はもともと、永鳥に惚れて尊皇攘夷を志すようになり、永鳥に兄事していたのだとか。その後、永鳥に松陰を紹介され、松陰の弟子になったそうです。彼もまた、長州人に強い影響を与えた一人だったのですね。



と、いうことで、志士と放蕩児の二面性が魅力的な永鳥 三平について語ったのでした。







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永鳥三平


永鳥 三平(ながとり・さんぺい、1824~1865)

玉名郡安楽寺村(現・玉名市安楽寺)出身。
永鳥の姓は熊本城下にあった家・永鳥家に養子入りしたことによる。
医者の家系松村家の末子で、富田 大鳳の教えを兄・松村 大成より学ぶ。
幼い頃より才能に溢れ、一家が家財を全て投げ入れるのが惜しくなかったほどであった半面、破滅的な性格の持ち主で「オレは政治と戦と女が大好きだ」が口癖であったという。一計を案じることもたびたびで、語る論には妖気さえ帯びる魅力があったといい、才能が先走ることを危惧した父によって藩校時習館第5代教授・近藤 淡泉の家塾に入れられる。そこで轟 武兵衛と出会う。 
武術、とりわけ槍術に対する興味から兵学に転じ、山鹿流兵学を宮部 丈左衛門に学んだ。丈左衛門は宮部 鼎蔵の養父であり、鼎蔵とはそこで知り合うことになる。
 
嘉永3年(1850年)、宮部の紹介で吉田 松陰と出会う。松陰とは非常に馬が合い、宮部にさえ言わない相談事も永鳥にはする仲だったようだ。また、横井 小楠ともこの頃は非常に親しかった。
林 桜園「原道館(げんどうかん)」には嘉永4年(1851年)に入門。翌年には宮部(鼎蔵)の下で学んでいた佐々 淳次郎を原道館へ誘う。
 
嘉永6年(1853年)、兄・大成の意を受けて熊本を離れ、王政復古のための政事工作を始める。京にて梅田 雲浜と会い、互いの状況について確認する(宮部・松陰が「長肥二藩雄藩連合時局打開策」を、雲浜・梁川 星厳らが「尾水越三藩連合」を画策していた)。
江戸ではペリー来航にまつわる情報を探る一方で、長州藩士・金子 重之輔と出会う。金子の志を知った永鳥は、松陰が宮部とともに江戸へ来ると彼を紹介する。これが後の下田踏海事件へと繋がる。
同じく下田踏海事件に連座することとなる佐久間 象山ともこの頃交わる。
 
安政元年(1854年)、宮部・松陰とともに相模湾の警備状況を視察。松陰と金子のアメリカ密航(下田踏海事件)の際は大いに賛成し、常に懐に入れていた世界地図を松陰に贈った。後日、永鳥は松陰の下田の下見に同道している。
同年、将軍継嗣問題に関わり、一橋派に与して藤田 東湖らに協力する。しかし、それが熊本藩の知るところとなる。また、雲浜に藩内の政情を漏らしたことや松陰らの密航への関与もあり、実質的に死ぬまで熊本藩に幽閉の身となる。
 
その後は兄・大成と同じく肥後の志士のサポートに回り、(大成は玉名で、永鳥は城下で)情報の中継や志士の保護をし、自宅を会合場所として提供する。
文久元年(1861年)に清河 八郎が熊本(玉名の松村家)へ来訪。この時、永鳥は清河の「薩摩藩の率兵上京」の言葉を信じることができず、宮部と甥・松村 深蔵に事実確認のための薩摩偵察を促している。このため、肥後の志士は再度の尊皇攘夷運動の参加には出遅れたが、寺田屋事件に巻き込まれずに済んでいる。
 
文久3年(1863年)には禁裏守護(京都御親兵)の構想が実現するも、参加せず。八月十八日の政変が起こると直ちに投獄される。長年の放蕩がたたり、身体は既に病に侵されていた。
永鳥は常々、「自分の死後、死体を焼いて何か残っていたら、それは赤子の魂であるからうやうやしく祀ってくれ。何も残っていなかったら、自分は不忠の臣であるので祀る必要はない」と言っていたという。
慶応元年(1865年)、獄中にて病死する。享年42。

【永鳥 三平ゆかりの場所】
梅林天満宮(ばいりんてんまんぐう:氏社、熊本県玉名市津留499)
松村大成・永鳥三平顕彰碑(梅林児童公園、熊本県玉名市下1899)

【主な参考資料】
後藤是山『肥後の勤皇』(1915)
中川斉ら『松村大成永鳥三平両先生伝』(1935)
渡辺京二『神風連とその時代』(1977)
勇知之『肥後の尊皇 南朝維新の源流』(2009)






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