以前描いた尾形百恵ちゃんの落書き↓が先生に気に入ってもらえたので調子のって描いてみた。もってるのは今はべろんが食べたいストロベリーチョコドーナッツ。
に、しても、永鳥さん難しい。特に髪型ああああ。
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幕末熊本女子でうく(ばくじょ)と戦国刀剣女子はべろん(せんじょ)による、 明治維新に貢献した熊本の志士たちをもっと知ってもらって盛り上げよう!という企画です。
その1はこちら 永鳥三平
今回は、資料を元にした小説より奇なる永鳥 三平伝説について語りたいと思います。
まず、永鳥 三平の人物としましては、吉田 松陰とか高杉 晋作とか、いわゆるそっちの人たちと同種の人間です。つまり、変人です。
ちなみにこの人も宮部や松田同様、吉田 松陰とはペリー来航前後から親しくしており、1854年にはペリー艦隊に密航しようとした松陰を見送っています。
松陰のアメリカ密航に際しては、事前に長州人(来原 良蔵ら)と肥後人(宮部・永鳥・佐々・松田)に相談があったようで、宮部らは必死に松陰を思い止まらせようとしたそうです。
しかし、そんな中、意見を聞かれ
永鳥 「うん、別にいんじゃない?」
一同 「永鳥イィィィィィィ!!!!」
松陰は嬉々として計画を実行に移し、結局牢獄に繋がれることになりますが、永鳥はその前後に資金援助をしたり(兄に出させた金でですが)罪が重くならぬよう根回しをしたりして、松陰をフォローしています。(ちなみに、この件で松陰の師匠である佐久間 象山は逮捕、宮部も重要参考人として取調べを受けるなど、周囲はものすごいとばっちりを受けています)
さて、そんな度量が大きいのか単に適当なのかわからない(まさに松陰型としかいいようのない)永鳥、肥後勤皇党の支柱である林 桜園の原道館には1851年に入門しています。しかし、その前に、彼は原道館とは別の流れを汲む勤皇流派をもつ兄(松村 大成。医師で、肥後勤皇党のパトロンとなった)の下で学んだ生粋の勤皇家で、宮部は永鳥たちの一派(これを「富田派」といいます)と原道館派を統一させることで、肥後勤皇党を生み出します。
どんどん話が眠くなる方向へ寄っていっているので戻したいですが、彼の口ぐせは
永鳥 「オレは政治と戦と女が大好きなんだよ」
だったらしく、しかもそれに加えて 酒も大好き で、八月十八日の政変で彼は逮捕され、1865年に獄中で病死しますが、それは酒の飲みすぎからきているんじゃないかとさえいわれています。
他にも逸話はいろいろあって、
かわいがっている姪がいて、袂から菓子を取り出しては投げ与えていたがなぜか食べかけだったり、
よその家に土産物を持って行く際に、なぜかその土産物を食いながら行き、着いた時には当然食べかけ、
ひどい時には
永鳥 「食べてしまったから もうないよ」
ということが しょっちゅう だったらしいです。まじクレイジーです。
それだけでなく、生活そのものも破滅型だったらしく、常に無一文で世界地図だけを懐にしのばせ
「志士と放蕩児のどっちが本当の姿なのかわかんない」
と周囲に言わしめ、
「激薬先生」
のあだ名で呼ばれていたらしいです。
彼はペリー来航直後には既に志士活動を始めており、1854年には水戸へ行き、将軍継嗣問題が一橋派へなびくよう裏工作を開始しています。この頃、梅田 雲浜と親しくなり、
と、まるで息を吐くように大嘘をつき、肥後藩は慌てて彼を国許に呼び戻し蟄居処分にします。永鳥と肥後藩のいたちごっこの始まりで、罪人扱いになっても痛くもかゆくもない永鳥はまた何かやらかし、そのたびに肥後藩が禁固処分にし、をくり返しています。ここがもう、松陰や高杉そっくりです。そう考えると、肥後藩もけっこう心が広いよね。
後藤 是山の 『肥後の勤皇』(大正4年刊) という本には「桜園門下の三強」という項目があり、これは桜園門下のトップスリーである宮部・永鳥・轟 武兵衛を指すそうです。
三強は年齢的には 轟 > 宮部 > 永鳥 の順で3歳ずつ違ったそうですが、頭脳的には 永鳥 > 宮部 > 轟 の順で優れていたようで、永鳥には頭脳派の一面もありました。現に、1861年に清河 八郎が薩摩島津が京へ倒幕のため挙兵するという話を持ちかけてきた時、信じなかったのは誰もがですが、永鳥は清河がこれから島津を説き伏せるのだと見抜き、事態がどう変わるかを見届けることは必要だと言って薩摩への偵察を促しています(清河からは「元来虚容のみの人物にて一向に信ずべき風体の者にあらず」とけちょんけちょんにけなされていますが)。
「宮部の徳行、永鳥の智略、轟の豪胆」 と呼ばれていたそうです。
そんなテキトーながらも才能に恵まれている永鳥にライバル心を燃やしていたのが 豪胆の轟 武兵衛 で、何かと永鳥に突っかかり、張り合おうとしていたとのこと。
一方、永鳥の方はというと
江戸住まいの轟の家に無一文で転がり込み、兄に金を出させるだけでは足りず轟の小遣い銭をせしめ、轟の布団に勝手に入り、枕を横に並べ
永鳥 「今夜は語りたい気分だから寝かさないよ」
と、言って寝物語に夜を更かした、なのだそう。なんというジャイアニズム。
こんな漫画みたいなこと、あるのでしょうか。
しかし、それでも永鳥は肥後人には多くない非常なカリスマ性と説得力を併せ持っていた人だったようで、ひとたび論ずればみんな永鳥の話に聞き入り、心服したそうです。
松陰とともにペリー艦隊に密航しようとした金子 重之輔はもともと、永鳥に惚れて尊皇攘夷を志すようになり、永鳥に兄事していたのだとか。その後、永鳥に松陰を紹介され、松陰の弟子になったそうです。彼もまた、長州人に強い影響を与えた一人だったのですね。
と、いうことで、志士と放蕩児の二面性が魅力的な永鳥 三平について語ったのでした。