幕末熊本最前線 物見櫓

幕末熊本女子でうく(ばくじょ)と戦国刀剣女子はべろん(せんじょ)による、 明治維新に貢献した熊本の志士たちをもっと知ってもらって盛り上げよう!という企画です。

DEUKU旅行記

松田と平野の潜むまち、富田林寺内町

1泊2日の大阪の旅、自分の中でもけっこう記憶があやしくなってきているので、備忘録的に整理してみますと、

1日め:南河内郡太子町(松田 重助の碑、推古天皇陵、小野妹子の墓、科長神社、二子塚古墳、近つ飛鳥博物館、叡福寺(遠くからのみ))

2日め:富田林寺内町、四天王寺(大阪市)、あべのハルカス

に行ったのでした。


本記事では松田ルートと称して富田林寺内町の旅を取り上げます。こちらも、DEUKUのブログ「植民所在地3丁目」と同時に掲載しますだよ!



松田が潜んでいたという富田林寺内町は、大阪阿倍野橋駅から近鉄南大阪線の吉野(奈良県)行きに向かう途中の駅・富田林駅が最寄です。なので、今回は太子町と富田林のどちらにも電車一本で行ける阿倍野~天王寺を旅のアジトとすることに。下調べは最低限しかしないがモットーの私が今回、聖徳太子ゆかりの四天王寺に行ったのは、単にホテルから近かったからという理由が大半で、実は四天王寺が太子ゆかりの寺と知ったのは1日めの夜だったりします(爆)



話を戻して、富田林寺内町は1997年に選定された、大阪府で唯一の重要伝統的建造物群保存地区です。この名称を聞いて私の頭をパッとよぎるのは、北海道の函館、埼玉県の川越、岐阜の郡上八幡、岡山県の倉敷、山口県の萩市、愛媛県の内子町。特に山口県の萩市では、町並みを保存することがいかに面倒で大変なことかを夏みかんの木の下で30分にわたり滔々とレクチャーされたことにより、以来こういった地区を見ると、「大変なんだろうなぁ・・・」と、すれた感想が真っ先に浮かぶようになりました。あ、萩の名産である夏みかんは江戸時代の武家町の保存地区の至るところに植えられていますが、夏みかんが植えられ始めたのは明治以降で、現在では安倍マリオから「植えてください」と言われているそうですよ。



またまた話が逸れましたが、富田林寺内町は戦国時代末期に京都の西本願寺派・興正寺のお坊さんが別院(興正寺別院)を建てたことで誕生した自治集落です。興正寺別院を中核として町割を行い、町割や土地の整備に協力した近隣4ヶ村の8人の村人を年寄役に招き(八人衆)、自治区としての体制が整うようになりました。当時8人だった有力者は幕末には19人にまで増え、幕府の直轄地でありながら幕府の介入を許さなかった地域性から、志士にとっては格好の隠れ処でした。


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寺内町の中核・興正寺別院。今回の旅は本当に寺と縁がなく、ここでも中をうかがうことはできませんでした。

てか、この日は祝日だったので観光客が結構いるのかと思いきや、実に閑散としたもの。私としてはこの景観を独占しているようでバシバシカメラに収めましたが、ウォーキングやサイクリングで通り過ぎていく人が大半で、観光地って感じがあまりしません。
というのも、ふらっと立ち寄れる建物が本当に少ない。保存地区の入口で話をしたおばあさんから「1時間もあれば、回れるで」と言われたのですが、長居することで有名な私でも2時間ちょっとで終えたので、本当に“景観を楽しむ”感じです。


以下、寺内町の町並みおよび19人の有力者(大組衆)の家。

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寺内町に入ってすぐにある、北口地蔵尊。かつてこの町を往来していた人たちはこのお地蔵さんに挨拶をして町の中に入ったんかな、と想像したのですが、もともとは北ではなく南に祀られていたとのこと。南口を越えたところには川が流れており、車馬の通交が盛んだったそうです。


寺内町は碁盤の目の造りをしており、中心部を北から南に縦断する城之門筋(じょうのもんすじ)に沿って写真を載せていきます。
 

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奥谷家。18世紀頃、富田林に移住し、材木商を営む。屋号は「岩瀬屋」で、河内長野市の出。


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南奥谷家。奥谷家の分家。明治の前半ごろに起こる。奥谷家には他に東奥谷家があり、そちらも分家で本家の向かいにありますが、郵便局員さんがバイク停めて仕事をしていたので、写真を撮るのはやめましたw


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杉田家。
興正寺別院と通りを挟んで向かいあったところにあるおうちです。18世紀後期からの記録があり、油屋を営んでいたそうです。屋号は「樽屋 善兵衛」。
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現在は医院のようですな。


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杉田家の向かいにある、
田守家。17世紀に富田林に移住し、木綿屋を営む。屋号は「黒山屋」で、旧美原町(現・堺市)の出。

田守家住宅は寺内町でも2番目に古い建物ですが、この家には写真左上に上部のとがった柵(忍返し)があります。これは富田林寺内町が自治・自衛の町であったことの名残です。


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木口家。18世紀中期の築造と推定。屋号は「木綿庄」で、木綿屋を営んでいたといわれるが、最終的には瀬戸物商を営んだ。


※いずれも内部は非公開です。子孫のかたが住んでおられるからね。 



このように、富田林寺内町は江戸時代に商業のまちとして大きな発展を遂げます。そのような中で、町人たちは俳諧に興じ、興正寺別院などでは能や浄瑠璃が盛んに興行されるようになります。そして、文化のまちとしても知られるようになったこの町に、嘉永5年(1852年)、嵐を呼ぶ男が降り立ちます。




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吉田 松陰です。




松陰は江戸に向かう途中、木口家から右に曲がった東林町(ひがしばやしちょう)の通り沿いにある仲村家を訪ね、20数日にわたって滞在しています。仲村家は酒造業を営む家柄で、戦国時代末期の“八人衆”の頃から組衆を務めた旧家です。


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仲村家
(左から撮ったものと右から撮ったもの)。屋号は「佐渡屋 徳兵衛」であり、松陰のみならず文人墨客が数多く訪れていたのだそう。この仲村家の隣家が松田の友人・水郡 善之祐(にごり・ぜんのすけ)の祖父の隠所であり(ちょっと!岐阜に戻った後に知ったんだけど!
)、松田はどうやら隠所かその近くで私塾を開いていたようで、「湯浅 権之助」の変名で安政の末と文久3年の二度、隠れ住んでいます。隣家なんてさすがにチェックしてねえよおおおお!!!
余談ですが、変名の「湯浅」は古高 俊太郎が潜んでいた枡屋の本姓で(湯浅家は肥後細川家の遠縁の家柄)、古高もまた「湯浅 喜右衛門」の変名を用いています。

富田林に潜んでいたことで有名な志士は、松田の他に筑前福岡藩士の平野 国臣がいます。平野は肥後人関連でいうと松村 大成さんとの関係が深く、大成さんに槍を贈ったかたでもありますけど、富田林にいた頃は昼は寺子屋、夜は私塾を開くという多忙な日々を送っており、まったく志士の精力旺盛さには脱帽なのであります。


最後に、幕末とは関係がありませんが、私が最もお気に入りだったスポットを。

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旧杉山家住宅。

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ここは中に入れます(有料:400円)。

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石上 露子(いそのかみ・つゆこ)はご存知でしょうか。与謝野 鉄幹・晶子夫妻と関わりのあるかたで、雑誌「明星」で短歌を発表していた女流歌人です。本名は杉山 孝(すぎやま・たか)といい、彼女の生まれた杉山家は寺内町の創立時から組衆を続けてきた最も古い旧家です。建物も、土間の部分は17世紀中期のものが現存しており寺内町で最も古いといわれています。


ここのおうちが見応えバツグンで、部屋の内部や杉山家のこと、露子の人生についてはもちろん、寺内町の建築物群の目のつけどころなども映像でわかりやすく教えてくれます。映像を見た後に寺内町をもう一度散策してみると、来てすぐの時とは違った感覚を味わうことができました。


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露子が住んでいた頃に取りつけた螺旋階段。露子の住んでいた明治時代に螺旋階段が存在したのは、とても珍しいことなのだとか。



また一つ松田への愛を深くした、でうくなのでしたハート

松田を訪ねて山田を巡る

本記事は、DEUKUのブログ「植民所在地3丁目」と同時掲載している記事です。
宣言通り、松田 重助ゆかりの地を訪ねてきた旅行記を載せますよ!


今回でうくが旅をしたのは、大阪府の太子町山田 。山田は大字の一つでそれほど大きな地域というわけではないけれど、山田だけで記事一つ出来上がるほど濃密な時間を過ごせました。


太子町は奈良県香芝市および葛城市と接する大阪府最東端の町で、日本最古の国道といわれる竹内街道が通っています。最寄の駅は、近鉄南大阪線の上ノ太子(かみのたいし)駅。


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上ノ太子駅の前にある竹内街道の碑。


そもそも、何故私がこの山田に用があったかといいますと、


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松田!


この太子町山田に、松田 重助の碑があるからです。


松田についての手がかりは私の手の届く範囲では本当に少なく、既に手に入れた資料から松田の名前だけを抜き出していくという狂気じみた趣味を発動させていたのですが、根気強く松田ストーカーを続けていると、天誅組について専門的に調べておられるかたのブログに辿り着き、松田について触れられていました。

松田は天誅組のメンバーではありませんが、天誅組を財政面でも兵糧面でも支えた水郡 善之祐(にごり・ぜんのすけ)という人と親しく、追手から匿ってもらったり挙兵を打ち明けられたりしていました。ちなみにこの善之祐さん、中世宇土城の記事で触れた紀姓宇土氏と血の繋がりがあるようです。世間ってば狭くてたまに嫌になりますね!(爆)

なので、松田を天誅組の括りに入れるケースも無きにしもあらずのようです。


この松田の碑も『天忠(誅)組松田重助先生~』という名になっているとのことで、このかたの情報を元に私は山田に飛んだ。

正直、私は不安だった。松田の碑に辿り着けるのか。何故ならば、今回はマイナー度がいつもの比ではない上、モータープールの意味が私にはわからなかったからだ。

松田の碑は山田地区の仏陀寺前にあるハタモータープールに建っているという情報だったのだが、初めてその外来語に触れた私は、ハタ・モータープールなのか、ハタモーター・プールなのか、それともハ・タモーター・プールなのかそもそも言葉の区切りさえわからない。「モータープール」をGoogle mapで検索しても山田と全く別の場所が出るので、ハタモータープールは山田にはもう存在しないのでは?それともモーター(何のモーターなのかは察し)をホルマリンのプールにでも漬け込んでいる知ってはいけない場所なのでは?と想像力をたくましくしておりました。「モータープール」を関西語で「駐車場」を示すことを知ったのは悶々とし始めて1時間後のことでした。要は、 「山田地区の仏陀寺前にハタさんの運営する駐車場(ハタ駐車場)があって、その敷地内に松田の碑が建っている」 ということなのでした。うむ、日本語は深いで!

ま、モータープールの意味がわかったところで仏陀寺が地図検索で出てこなかったら辿り着けていませんでしたがね。



近鉄線で橿原神宮行きの電車に乗り、奈良方面に向かう途中で上ノ太子駅はあります。駅そのものは羽曳野市(はびきのし)に属しますが、線路を渡ると太子町という、限りなく市と郡の境。

山田地区は結構な住宅地ですが、バスの時刻表を見るとバスに乗って最寄の停留所まで行こうなんていう甘い考えは消し飛びます。かろうじて一軒、レンタサイクル屋さんが駅前の道路を挟んですぐの場所にあって、電動自転車と普通の自転車を借りることができました。私は電動自転車の使い方に自信がなくて普通の自転車にしましたが、借りるならば電動自転車が断然おすすめです。山田地区はその名の通り山を切り拓いて田んぼと住宅地にした地域なので、普通の自転車借りても半分くらいしか自転車の役目を果たしてくれません。 半分は、押して、歩く。ええ、西郷恒例の登山イベントですがなにか?(爆)


太子町の人たちは、大阪人の人懐っこさと奈良人の穏やかさを併せ持ったかたがたで、道の途中でいろいろなかたに話しかけられながら先に進みました。山田が山を切り拓いたなんて山田に住むおばあさんが教えてくれましたからね。ええ、言われるまで気づきませんでした私。



仏陀寺および松田の碑は、山田の山の頂上ともいえるところにありました。ほぼ同じといっていい場所に、太平洋戦争で徴兵され、戦死した山田地区出身のかたがたの慰霊碑もある。


仏陀寺そのものも結構有名なお寺で、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の墓( 仏陀寺古墳)が境内にあるとのこと。そがのくらやまだいしかわまろ・・・誰かよく知らんけど学校で習ったわ~。名前にインパクトがありすぎて寿限無並みにクラスメートと暗記合戦した。


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石川麻呂の墓のある仏陀寺。門は閉じていたので中に入ることは控えました。


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塀が低いので、塀の外からでも鐘つき台がはっきりと見えます。この鐘はなかなか数奇な運命を辿ってきた鐘で、大東亜戦争に伴って供出されたものが、敗戦のおかげで溶かされずそのままの姿で戻ってきたのだそう。


そして、仏陀寺の向かいが・・・


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松田!(爆)
あぁ~会いたかったよ松田!松田!(なんか違う)

松田の碑が何故こんなところにあるのかというと、これも天誅組について調べておられるかたのログからなのですが、碑のあるここ(ハタモータープール)はもと円妙寺というお寺であり、 円妙寺の僧侶の娘を松田が娶っていたからなのだそうです。えっちょっと待って、松田って既婚者だったの!?しょっく!!←

松田は池田屋事件によって京で命を落とし、その遺骸は京の三縁寺に葬られる・・・のは割と知られた話ですが、松田の死を聞いてここ円妙寺でも松田の位牌を置いていたとのこと。円妙寺は現在、大阪市に移転し、位牌もそれに合わせてそちらの方に移っているようで、こちらは 『天忠組松田重助先生位牌所跡』として地元の有志によって石碑が建てられたとのことでした。
この情報を受けて、円妙寺が大阪市にあるのかざっと検索してみると、なんと3ヶ所ありました。どれもHP等なく詳細がいまいちわからないのですが、最も大きいと思われる中央区の「円(圓)妙寺」は、大倫寺、正法寺、法雲寺、久成寺など他の寺と隣接していて、松田抜きにしてもなかなかに面白そうな感じ。寺町なのだなぁ。

松田は富田林に身を潜め、家塾を営みながら同志集めに奔走しています。それは太子町のお隣・富田林市寺内町の紹介サイトにも載っているのですが、そう、富田林はお隣の市なのですね。鉄道も、上ノ太子経由と富田林経由で違う路線が走っていて、太子町と富田林は結構離れているのです。その距離間は、徒歩にして約1時間半。まぁ、当時の感覚ではそこまで離れていないかもしれないけど、「 富田林に潜んだ」という記録にある富田林の範囲が太子町も含んでいるのかいないのかというと、どうも含んでなさそうだなぁと翌日富田林に行ってみて思いました。つまり、「富田林に潜んだ」という記録はこの太子町の円妙寺を指しているのではなく、富田林は富田林で潜んでいたと。僧侶の娘さんを娶ったということは、円妙寺の僧侶の信頼も得て匿ってもらっていたことが考えられるので、ほほう ハタモータープールは富田林に次ぐ2つ目の隠れ家かな、と思ってみたり。考えてもみれば、松田は幕府に追われて各地を転々としていたので、痕跡があちこちで出てきても別におかしくはないんですよね。

しかし、碑を見つけたはいいが、見つけても別にやることはないのでとりあえず松田の碑の右側にある脇道に入ってみる。岐阜から3時間半かけて来て碑だけ見るってどうよ。しかし鈍行でも3時間半で行けるって岐阜の交通網は何気にスゴイ。日本のへそは最強なのである。

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脇道行くとただの竹林。

このまま進むと、チェーンソーを持ったおいたんたちと鉢合わせしたので(文章に悪意あり
笑)慌てて戻り、自転車を漕いで山田の山を降りると、麓には・・・

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なんと!

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『推古天皇磯長山田陵』

推古天皇のお墓が!光栄だなぁ~松田!てか頭が高いよお前!天皇見下ろしてるよ!(爆)

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大正14年に建設された拝所。うぃ、ウィキの画像じゃな・・・!(以下略)

この拝所の奥に、推古天皇とその息子・竹田皇子が合葬されている山田高塚古墳があるそうです。古墳は完全非公開。


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太子町は推古天皇のお墓の他、敏達天皇陵・用明天皇陵・孝徳天皇陵・二子塚古墳などがある古墳のまちでして、「近(ちか)つ飛鳥」と呼ばれる飛鳥時代の空気を教えてくれます。松田が山田に痕跡を残したのも、天皇ゆかりの場所が多かったからなのかな。


松田の痕跡を辿る旅、次回は富田林寺内町をお送りします。


今回の旅で参考にさせていただいたログ:http://blogs.yahoo.co.jp/tentuji 

ぶらり佐世保

はべろん楽だまされたな!!先生ではなく私だ!!
ということでカテゴリはDEUKU旅行記ですが、今回は学徒のはべろんが徘徊してきました。
だってカテゴリ増やすのめんどいんですもん。

さて佐世保。に来たものの、全然予定がない。
なぜなら突然、佐世保で三時間暇をつぶせという任務が下りたからだ。
「そういや松陰も長崎に来てたな。なんか引っかからんかな」
とググる。二か所ほど引っかかるが住所が載ってない

幸いにも佐世保駅に観光課があったので聞いてみると、時間内に行けそうなのは小松屋跡
長崎に来た松陰が泊まった宿の跡らしい。
まずは最寄りの早岐駅へ。

もらった観光地図には載っていないものの、鉛筆で印をつけてもらったから割とスムーズ。
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右上の会場って文字の間。
紫色の道が昔の大通り平戸往還ので、宿屋さんや店が並んでいたんでしょうな。

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お店の看板かと思ったら歴史案内板。

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あった~って民家やんけ!!!!!!!
てか看板だけで碑はどこなんよ!!!!!!!!
うろうろしたものの偵察値が低いのか、見つからねえ。

人間あきらめが肝心だ。
あまりうろうろすると不審者丸だしだからな!

ということでかわりに甲蟹を探す。
ここに生息してるらしいからな。蟹味らしいからな!
もちろん見つからねぇ!!
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それにしても周囲にスナックやらが多いぞ。
やっぱりメイン街道沿いだったから、お姉さんのいる店が昔から多かったのかな?
童貞だった松陰先生には必要じゃないというのに・・・
 

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いしんししの旅〜晋作くんコース〜

※この記事は2014年7月5日のDEUKUの旅行記を転載したものです。

さてさて。。。短期決戦の女なので後半すぐ上げちゃいますよ。忘れるからね!←



2日目は天気が持ちこたえてくれず、泣く泣く30分ごとに来る周遊バス(松陰先生コースと晋作くんコース)での移動に切り替え。城下町行きの晋作くんコースに乗り、萩博物館前で降りると、目の前には田中 義一像が。

田中 義一像に背を向けてまっすぐ進んだ道を「御成道」と言って、参勤交代に使われた道だそうですが、その道をそのまま行くと萩城城下町に入ります。程無くして道の両側に、一際大きい長屋が現れます。
これが「菊屋家住宅」と「旧久保田家住宅」です。

松下村塾で話をしたツアー客の方に「菊屋家住宅は絶対に行っておくべき!」と言われて行ってみたのですが(私は下調べはしない主義( ̄∀ ̄))、いやはや、ここはすごかったですね!

菊屋さんは子孫さんが案内してくださる(向かいの旧久保田住宅や他の旧宅は萩市の職員さんが案内)現在に至るまで旧宅から離れていない(それは旧宅とは呼ばないですね(´ºωº`))400年前から続くお家ですが、とにかく展示品の保存状態がものすごくいいのです。恐らくは全て実物です。江戸初期からの品や当時の海外輸入品がきれいな形で残っていて、小物にあまり興味のない私も食い入るようにして見てしまいました。もちろん、建物はどうしても老朽化するので修理・復元はしてあるのですが、それを抜きにしても、ここまで大きな町家としての形を残してあるのは全国に類を見ないでしょうね。伊藤 博文がイギリスから持ち帰って来た時計は今でも動いていて、正確な時間を刻んでいました。毎週金曜日にぜんまいを巻き直すのですって。

以下の事は、旧久保田住宅のガイドさんが説明してくださったのですが、菊屋さんは幕末よりも現在の方が持っている土地が広いらしく、高杉 晋作の誕生の地も現在は菊屋さんの土地なのだとか。いやぁ、すごいですね。春と秋には庭園を開放して花見や紅葉が見られるそうで、まだまだ隠し玉があるようなので、もう一回行ってみるべきかな。とにもかくにも、オススメです。


しかしですねしかしですね!個人的には、向かいにある旧久保田住宅にも行くべきだと思います!といいますのも、菊屋さんには二階がないのですが(参勤交代の際に大名を見下ろさないようにする配慮のため)、旧久保田家には二階があるのですよー!こちらはまた違った配慮をしておりまして、使用人を多く抱えていたのでどうしても大名行列を見てしまう。なので、窓の方に工夫がしてありまして、内側からはそれなりに外の景色が見えるのですが、外側からは室内が見えないようになっている。大名たちは自分たちがじろじろ見られている事を意識せずに済むのですね。いわば盗み見ですが、これもま、配慮の一つですよね(あと、扉を閉めると自動的に鍵がかかるオートロック的なからくりもしてあって、すごく知的で面白い建物です。七卿落ちの際に七卿のうち一人を匿った隠し部屋もあるので、隠し部屋を推理しながら歩いてみるのもいいかもしれません。

久保田家もまた幕末よりも明治に栄えたお家で、明治期に増築されその上江戸期からある建物も大改造されているそうです。こちらの歴史は200年。菊屋家と旧久保田家ではガイドをしていただいたので写真を撮っていないのですが、萩を旅行される予定のかたはぜひぜひ行ってみてください!


萩はとにかく旧宅がかなりの数残っているので、入るときりがない部分があるのですが、暴風雨に見舞われどこかで雨宿りをしないとヤバいということで()、突撃木戸さんちー!(ヒドイ動機が不純なのはおいといて、木戸さんち(木戸 孝允=桂 小五郎)もかなり素敵でした。

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木戸 孝允旧宅は菊屋家住宅を過ぎ、右に曲がった所にあり、石碑のある道沿いが何故か裏口という不思議な建ち方をしています。奥まった所にあるのが何故か入口。現在裏口とされている所に表玄関という表示がされていたので、恐らく当時は普通にそこから出入りしていたのでしょうな、木戸さんは。

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ここは、木戸さんが生まれてから20歳になるまで暮らしていた家で、誕生した部屋や勉強部屋、家族で過ごした部屋など当時の生活感が非常によく感じられました。

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この部屋にある「今日」の掛軸は、なんと、木戸さんが8歳の頃に書いた書!上手い!上手すぎる!ちなみにこの掛軸の朱文字の部分は「以ての外よろし」と最高の褒め言葉が書かれているらしく、先生のお墨付き!そうですよね!美しい!

そして、文字フェチの火をつけられた私には、もう木戸さんの書しか目に入らない。

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こちらは木戸さん11歳の時の書。おおなんと美しい!大人でも現在こんな字は書けません!
こちらも、「天晴れ見事見事」とコメントがしてあるらしく、城下で評判になったらしい。そりゃそうですよね!


お腹いっぱいで外に出ると、雨が小降りになっていた。


しかし周遊バスが来るまでまだ時間があるので、すぐ近くにある円政寺へ。

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(円政寺)

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(金毘羅社)

ここの住職さんは伊藤 博文の親族らしく、その関係で博文はこの寺で読み書きを教わったのだそう。また、高杉 晋作が子どもの頃に遊んだ寺でもあり、二人はこの寺にある木馬を愛でていたのだとか。木馬の鼻をよく撫でていたという事なので、私も彼らにあやかってなでなでしてきた観光客の一人でござぁますよ。

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明治に入って、神仏分離令が出され神道の国教化が進められますが、この寺は神仏分離を免れた珍しいお寺で、正面は寺、横を向けば神社と神仏習合の頃の名残があります。鳥居も、神社の象徴だけではなく、鳥木と柱の間に丸い玉(これは数珠を表している)を挿む事で、寺の象徴も兼ねているのだそう。富岡製糸場で長州出身の女性が優遇されていた事からも、このように新政府前の制度の建物を遺せているのも最終的に勝ったという要素が強いのかなと思いました。

あと、こちらが息子・晋作に度胸をつけさせるために度々父親がここへ連れて来て見せたのだという神社(金毘羅社)の天狗の面。だからあんなに豪快な人になったのかな…(

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結局、円政寺のかたとお話をしていたら晋作くんバスに乗り遅れたので、歩いて萩城址へ行く事に。


意外にも歩いてもそれほど時間がかからない事に気づき、晋作くん誕生地、旧毛利別邸表門、天樹院墓所、口羽家というバスでは通らない名所を確認しつつ到着する。

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萩で最も惜しいと思う部分は、肝心の城が残っていない事。天守閣だけでなく全ての建物が全く残っておらず、完全に自然公園となっておりました。
ただ、個人的に面白いと思ったのは平城ということで、天守にはすぐに行き着きますが天守の裏にそびえ立つ指月山が結構神秘的なこと。指月山には詰所があったようで(それも跡)、雨が降っていなくて時間があったら絶対登っていたような気がする。山城しか行った事のない私にはとても新鮮でした。

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そして最後に、彼こそ小説の主役なので行っておくべきと思い、久坂 玄瑞誕生地へ行きました。やはり身分を象徴するのか、久坂さんだけ三角州の中でも少し離れた位置にあるんですよね。これが結構、いやなかなかな賭けで、バスの時間が少しずれてしまうと当日中に関東に戻れなくなるというリスクが。しかし、しかし!平安古って地理がまず気になっていたし、他の人の家に行って主役の家に行かないって…!と、いう事で、強行。

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久坂さんの家は現在は遺っておらず、悲しいですが、このように立派な石碑が。バス停も、「久坂 玄瑞誕生地前」と石碑の真ん前を意識して立てている。こちらの人って、本当に先人を大切にしますよね。「○○○(偉人の名)前」ってバス停や駅があっても、少し離れた所に実際はある事が割と多いのに。熊本人としても、そこを非常に見習いたいですよね。


そして、急ぎ松陰先生バスに乗り、野山獄跡入口で降りて昨日撮れなかった分をパシャリしてホテルへ走り、小降りの中チャリで東萩駅へダッシュ。そして前編の冒頭部分に戻る。全体的に慌しい旅でしたが、とても楽しかったです。これから小説の舞台も萩へと移るので、非常に参考になりました。

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(野山獄跡)

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(岩倉獄跡)

2日目に初日の挽回で撮影した野山獄と岩倉獄。野山獄と岩倉獄は向かい合わせに建っていたのですね。思ったより狭い牢獄だなと思ったのですが、それぞれ碑が建っているのは獄舎の敷地の一部に過ぎないのだという。それぞれの獄舎の他の敷地には、現在は家々が建ち並んでいます。

 




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いしんししの旅〜松陰先生コース〜

※この記事は2014年7月4日のDEUKUの旅行記を転載したものです。


思い返してみると、関東に引っ越すことが決まってから東北諸国を縦断し(山形、岩手、宮城、福島)、広島で野宿し、移住してからは愛媛(松山、今治)、岩手(中尊寺)、栃木(日光)、北海道(札幌、函館、小樽)、京都(新選組ゆかりの地、鞍馬寺)、沖縄(那覇、美ら海水族館)、福島(会津若松)と、どこかに出でては没している。もともとそういう気はあったけれど、放浪癖に更に磨きがかかっているでうくです。突撃隣の晩ごはんや田舎に泊まろう的な経験もたまにあるので(全ては私の計画性の無さと見舞われる不運のせい…)、もしかしたら次の地でアナタと縁があるかも!?(笑)

さて、何だか大仰な前振りとなりましたが、一人旅です。スタッフとかいません。カメラは私のiPhoneのみです(笑) 今回は熊本から神奈川に行く途中で萩に寄り、勤皇の志士たちが歴史の表舞台に現れるまでに育った地を歩いてみました!


小さな町です。山陰線電車が2時間に1本来るか来ないか。歩くにはちと時間がかかりますが、自転車で十分回れる範囲なので、レンタサイクルをおすすめ。24時間貸し出しで1000円。ただ、雨が降ると予告なしにお店が閉まるので、自転車を返しに行った時にはお店が開いていない不運に見舞われ、危うく当日中に神奈川へ戻れる電車に乗り遅れそうになるという。JRや観光担当のかたの助けにより、ギリギリで乗る事ができました。この場を借りてお礼を申し上げますo((_ _*)o

今回の旅は一泊二日、初日の午後は自転車で松陰神社周辺、雨の降った2日目の午後まではバスと徒歩で萩城址、萩城城下町をメインに回りました。

よいしょっと。
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ちょっと写真が見にくいかもしれませんが、主に観光地が密集する地域は橋本川、松本川、日本海(うっすら青っぽい色の部分)に囲まれた三角州の中にありまして、その中に桂 小五郎、高杉 晋作、久坂 玄瑞などの少し身分の高い志士たちの誕生地、周布 政之助や長井 雅楽などの役人の家、藩校明倫館跡(現在は明倫小学校)や野山獄、岩倉獄などの藩の施設があります。それらに加えて現在では博物館やら史料館があるので、全部回るとなると大変ですが、距離的には城下町から一つぽつんと離れていると思われる久坂 玄瑞誕生地も徒歩30分程度で行けるくらいなので、移動にはそれほど苦労しないかと。城址からの移動の手軽さで、身分の高さが桂=高杉→久坂→稔麿と下がっていくのが今でも実感できます。さすが江戸時代の地図を現在も使える地。

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松陰神社は、この三角州の外側にあります。松陰神社の周辺は、私の通った所は吉田 稔麿誕生地、伊藤 博文旧宅、玉木 文之進(松陰先生の叔父)旧宅、松陰先生誕生地、松陰先生を始めとした勤皇志士たちの墓がありました。
山とかお墓とかは本来は行く気がなかったのですが、私って旅行すると、旅行なのに(!)気づいたら山にいる事すごい多いんですよね。友人との旅行でもそれは健在で、山の神に召喚されているのではと言われるほどである(爆)しかも今回は、振り返ればそこは霊園というオプションつき。…あれかな、田原坂とか、宮部さんのお墓とか、そういうとこ行ってたから何かついてきたかな……

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そして気づいたら松陰先生のお墓の前に。ここには松陰先生とその親族、久坂さんとその家族、高杉さん、稔麿ら勤皇志士のお墓があるらしい。宮部さんのお墓も撮影してきたので、代表して松陰先生のお墓のみ。宮部さんがもし私についてきていたら、松陰先生と再会できたかもしれないですね。155年ぶりの再会にお手伝いできていたらなんて、夢みすぎかしら?あと、久坂さんのお墓には全力で謝ってきました。私と友人が好き勝手書いてと(爆) 結末は変わらないけれど、いい話を書かなければなぁ。

松陰神社には、本殿の他に、松下村塾、野山獄から戻ってきた松陰が幽囚されていた杉家、松陰の書簡などが展示されている至誠館などがあり、ここだけで松陰に関する殆どを見る事が出来ます。

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(杉家)

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松陰が幽囚されていたのは、杉家の一室。三畳半程度の所です。ここに子どもたちが遊びに来たのが松下村塾の始まりで、訪れる子どもたちが増えたので新しく六畳の小屋を建て、塾となってからは六畳でも追いつかなくなり十畳まで増築して以下の写真のようになったとのこと(隣でツアーやってたガイドさんの説明を盗み聞き)。松陰先生もすごいけど、狭くなったからって建物造ってあげちゃう杉家の人たちの心の広さもすごい。萩は心の広さで出来ているような気がする。 

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(松下村塾全景)

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ツアー客の方にさんざん絡まれた後(笑)、至誠館へ。至誠館は、幕末や松陰先生に詳しい人にはちょっと物足りないかも。でも、書簡などは全て実物だと思うので、数は少ないけれどその点ではいいかもしれないです。

この時点でもう17時を回っていたので、お金を払う必要のない名所に自転車で散策。20時前まで日は落ちないので、その間に写真を撮ろうとまず野山獄を目指すのですが、ホテルから2分ほどで着く場所にあったのに何故か2時間かかった!なんでだろー?いつもこうなんですよね!京都で油小路事件の現場に行った時もホテルから徒歩3分ぐらいの位置にあったのに1時間半かかったし!見事に地図の読めない女ですな私は!

しかしその迷っている最中にも、行く先々で名所に出会うという。残念ながら、もう閉まってはいたものの桂 太郎旧宅や山県 有朋誕生地、地図には載っていなかった高札場と出会う。


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これは桂 太郎旧宅から撮った風景。藍場川という自然の堀が家々の前を通っており、入口に橋が架けてある。これは萩の三角州全体に見られる光景で、外敵が攻めて来た時に、橋本川と松本川に架けている橋を全部壊してしまえば、侵攻を遅らせる事が出来るというもの。橋本川と松本川は川幅が600m、最も狭い所でも200mはあるので、橋がなくなってしまえばそれだけで要塞になるという。すごいね。

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これが高札場。ここに幕府や藩からのお触れを掲示していたんですって。時代劇を見ない私は高札場の存在をこの旅行で初めて知りました。さっき地図で確認したら、ちょうど萩の三角州の真ん真ん中にありました。よく考えているなぁ。

そうやってぐるぐる迷い込んでいるうちに2時間が経ち、野山獄に着いたのは完全に日が暮れ真っ暗になってから。死人も出ているおどろおどろしい場所なのになんでこんな何か出てきそうな時間帯にいるんだ私は。という事で、萩初日はここでタイムアップ。2日目も名所満載で記事も長くなる予感がするので、ここで分割。後半(晋作くんコース)へ~続く。
 




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