1泊2日の大阪の旅、自分の中でもけっこう記憶があやしくなってきているので、備忘録的に整理してみますと、
1日め:南河内郡太子町(松田 重助の碑、推古天皇陵、小野妹子の墓、科長神社、二子塚古墳、近つ飛鳥博物館、叡福寺(遠くからのみ))
2日め:富田林寺内町、四天王寺(大阪市)、あべのハルカス
に行ったのでした。
本記事では松田ルートと称して富田林寺内町の旅を取り上げます。こちらも、DEUKUのブログ「植民所在地3丁目」と同時に掲載しますだよ!
松田が潜んでいたという富田林寺内町は、大阪阿倍野橋駅から近鉄南大阪線の吉野(奈良県)行きに向かう途中の駅・富田林駅が最寄です。なので、今回は太子町と富田林のどちらにも電車一本で行ける阿倍野~天王寺を旅のアジトとすることに。下調べは最低限しかしないがモットーの私が今回、聖徳太子ゆかりの四天王寺に行ったのは、単にホテルから近かったからという理由が大半で、実は四天王寺が太子ゆかりの寺と知ったのは1日めの夜だったりします(爆)
話を戻して、富田林寺内町は1997年に選定された、大阪府で唯一の重要伝統的建造物群保存地区です。この名称を聞いて私の頭をパッとよぎるのは、北海道の函館、埼玉県の川越、岐阜の郡上八幡、岡山県の倉敷、山口県の萩市、愛媛県の内子町。特に山口県の萩市では、町並みを保存することがいかに面倒で大変なことかを夏みかんの木の下で30分にわたり滔々とレクチャーされたことにより、以来こういった地区を見ると、「大変なんだろうなぁ・・・」と、すれた感想が真っ先に浮かぶようになりました。あ、萩の名産である夏みかんは江戸時代の武家町の保存地区の至るところに植えられていますが、夏みかんが植えられ始めたのは明治以降で、現在では安倍マリオから「植えてください」と言われているそうですよ。
またまた話が逸れましたが、富田林寺内町は戦国時代末期に京都の西本願寺派・興正寺のお坊さんが別院(興正寺別院)を建てたことで誕生した自治集落です。興正寺別院を中核として町割を行い、町割や土地の整備に協力した近隣4ヶ村の8人の村人を年寄役に招き(八人衆)、自治区としての体制が整うようになりました。当時8人だった有力者は幕末には19人にまで増え、幕府の直轄地でありながら幕府の介入を許さなかった地域性から、志士にとっては格好の隠れ処でした。
寺内町に入ってすぐにある、北口地蔵尊。かつてこの町を往来していた人たちはこのお地蔵さんに挨拶をして町の中に入ったんかな、と想像したのですが、もともとは北ではなく南に祀られていたとのこと。南口を越えたところには川が流れており、車馬の通交が盛んだったそうです。
寺内町は碁盤の目の造りをしており、中心部を北から南に縦断する城之門筋(じょうのもんすじ)に沿って写真を載せていきます。
田守家住宅は寺内町でも2番目に古い建物ですが、この家には写真左上に上部のとがった柵(忍返し)があります。これは富田林寺内町が自治・自衛の町であったことの名残です。
木口家。18世紀中期の築造と推定。屋号は「木綿庄」で、木綿屋を営んでいたといわれるが、最終的には瀬戸物商を営んだ。
※いずれも内部は非公開です。子孫のかたが住んでおられるからね。
このように、富田林寺内町は江戸時代に商業のまちとして大きな発展を遂げます。そのような中で、町人たちは俳諧に興じ、興正寺別院などでは能や浄瑠璃が盛んに興行されるようになります。そして、文化のまちとしても知られるようになったこの町に、嘉永5年(1852年)、嵐を呼ぶ男が降り立ちます。
吉田 松陰です。
松陰は江戸に向かう途中、木口家から右に曲がった東林町(ひがしばやしちょう)の通り沿いにある仲村家を訪ね、20数日にわたって滞在しています。仲村家は酒造業を営む家柄で、戦国時代末期の“八人衆”の頃から組衆を務めた旧家です。
石上 露子(いそのかみ・つゆこ)はご存知でしょうか。与謝野 鉄幹・晶子夫妻と関わりのあるかたで、雑誌「明星」で短歌を発表していた女流歌人です。本名は杉山 孝(すぎやま・たか)といい、彼女の生まれた杉山家は寺内町の創立時から組衆を続けてきた最も古い旧家です。建物も、土間の部分は17世紀中期のものが現存しており寺内町で最も古いといわれています。
ここのおうちが見応えバツグンで、部屋の内部や杉山家のこと、露子の人生についてはもちろん、寺内町の建築物群の目のつけどころなども映像でわかりやすく教えてくれます。映像を見た後に寺内町をもう一度散策してみると、来てすぐの時とは違った感覚を味わうことができました。