幕末熊本最前線 物見櫓

幕末熊本女子でうく(ばくじょ)と戦国刀剣女子はべろん(せんじょ)による、 明治維新に貢献した熊本の志士たちをもっと知ってもらって盛り上げよう!という企画です。

二〇一六年神無月

松田と平野の潜むまち、富田林寺内町

1泊2日の大阪の旅、自分の中でもけっこう記憶があやしくなってきているので、備忘録的に整理してみますと、

1日め:南河内郡太子町(松田 重助の碑、推古天皇陵、小野妹子の墓、科長神社、二子塚古墳、近つ飛鳥博物館、叡福寺(遠くからのみ))

2日め:富田林寺内町、四天王寺(大阪市)、あべのハルカス

に行ったのでした。


本記事では松田ルートと称して富田林寺内町の旅を取り上げます。こちらも、DEUKUのブログ「植民所在地3丁目」と同時に掲載しますだよ!



松田が潜んでいたという富田林寺内町は、大阪阿倍野橋駅から近鉄南大阪線の吉野(奈良県)行きに向かう途中の駅・富田林駅が最寄です。なので、今回は太子町と富田林のどちらにも電車一本で行ける阿倍野~天王寺を旅のアジトとすることに。下調べは最低限しかしないがモットーの私が今回、聖徳太子ゆかりの四天王寺に行ったのは、単にホテルから近かったからという理由が大半で、実は四天王寺が太子ゆかりの寺と知ったのは1日めの夜だったりします(爆)



話を戻して、富田林寺内町は1997年に選定された、大阪府で唯一の重要伝統的建造物群保存地区です。この名称を聞いて私の頭をパッとよぎるのは、北海道の函館、埼玉県の川越、岐阜の郡上八幡、岡山県の倉敷、山口県の萩市、愛媛県の内子町。特に山口県の萩市では、町並みを保存することがいかに面倒で大変なことかを夏みかんの木の下で30分にわたり滔々とレクチャーされたことにより、以来こういった地区を見ると、「大変なんだろうなぁ・・・」と、すれた感想が真っ先に浮かぶようになりました。あ、萩の名産である夏みかんは江戸時代の武家町の保存地区の至るところに植えられていますが、夏みかんが植えられ始めたのは明治以降で、現在では安倍マリオから「植えてください」と言われているそうですよ。



またまた話が逸れましたが、富田林寺内町は戦国時代末期に京都の西本願寺派・興正寺のお坊さんが別院(興正寺別院)を建てたことで誕生した自治集落です。興正寺別院を中核として町割を行い、町割や土地の整備に協力した近隣4ヶ村の8人の村人を年寄役に招き(八人衆)、自治区としての体制が整うようになりました。当時8人だった有力者は幕末には19人にまで増え、幕府の直轄地でありながら幕府の介入を許さなかった地域性から、志士にとっては格好の隠れ処でした。


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寺内町の中核・興正寺別院。今回の旅は本当に寺と縁がなく、ここでも中をうかがうことはできませんでした。

てか、この日は祝日だったので観光客が結構いるのかと思いきや、実に閑散としたもの。私としてはこの景観を独占しているようでバシバシカメラに収めましたが、ウォーキングやサイクリングで通り過ぎていく人が大半で、観光地って感じがあまりしません。
というのも、ふらっと立ち寄れる建物が本当に少ない。保存地区の入口で話をしたおばあさんから「1時間もあれば、回れるで」と言われたのですが、長居することで有名な私でも2時間ちょっとで終えたので、本当に“景観を楽しむ”感じです。


以下、寺内町の町並みおよび19人の有力者(大組衆)の家。

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寺内町に入ってすぐにある、北口地蔵尊。かつてこの町を往来していた人たちはこのお地蔵さんに挨拶をして町の中に入ったんかな、と想像したのですが、もともとは北ではなく南に祀られていたとのこと。南口を越えたところには川が流れており、車馬の通交が盛んだったそうです。


寺内町は碁盤の目の造りをしており、中心部を北から南に縦断する城之門筋(じょうのもんすじ)に沿って写真を載せていきます。
 

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奥谷家。18世紀頃、富田林に移住し、材木商を営む。屋号は「岩瀬屋」で、河内長野市の出。


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南奥谷家。奥谷家の分家。明治の前半ごろに起こる。奥谷家には他に東奥谷家があり、そちらも分家で本家の向かいにありますが、郵便局員さんがバイク停めて仕事をしていたので、写真を撮るのはやめましたw


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杉田家。
興正寺別院と通りを挟んで向かいあったところにあるおうちです。18世紀後期からの記録があり、油屋を営んでいたそうです。屋号は「樽屋 善兵衛」。
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現在は医院のようですな。


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杉田家の向かいにある、
田守家。17世紀に富田林に移住し、木綿屋を営む。屋号は「黒山屋」で、旧美原町(現・堺市)の出。

田守家住宅は寺内町でも2番目に古い建物ですが、この家には写真左上に上部のとがった柵(忍返し)があります。これは富田林寺内町が自治・自衛の町であったことの名残です。


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木口家。18世紀中期の築造と推定。屋号は「木綿庄」で、木綿屋を営んでいたといわれるが、最終的には瀬戸物商を営んだ。


※いずれも内部は非公開です。子孫のかたが住んでおられるからね。 



このように、富田林寺内町は江戸時代に商業のまちとして大きな発展を遂げます。そのような中で、町人たちは俳諧に興じ、興正寺別院などでは能や浄瑠璃が盛んに興行されるようになります。そして、文化のまちとしても知られるようになったこの町に、嘉永5年(1852年)、嵐を呼ぶ男が降り立ちます。




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吉田 松陰です。




松陰は江戸に向かう途中、木口家から右に曲がった東林町(ひがしばやしちょう)の通り沿いにある仲村家を訪ね、20数日にわたって滞在しています。仲村家は酒造業を営む家柄で、戦国時代末期の“八人衆”の頃から組衆を務めた旧家です。


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仲村家
(左から撮ったものと右から撮ったもの)。屋号は「佐渡屋 徳兵衛」であり、松陰のみならず文人墨客が数多く訪れていたのだそう。この仲村家の隣家が松田の友人・水郡 善之祐(にごり・ぜんのすけ)の祖父の隠所であり(ちょっと!岐阜に戻った後に知ったんだけど!
)、松田はどうやら隠所かその近くで私塾を開いていたようで、「湯浅 権之助」の変名で安政の末と文久3年の二度、隠れ住んでいます。隣家なんてさすがにチェックしてねえよおおおお!!!
余談ですが、変名の「湯浅」は古高 俊太郎が潜んでいた枡屋の本姓で(湯浅家は肥後細川家の遠縁の家柄)、古高もまた「湯浅 喜右衛門」の変名を用いています。

富田林に潜んでいたことで有名な志士は、松田の他に筑前福岡藩士の平野 国臣がいます。平野は肥後人関連でいうと松村 大成さんとの関係が深く、大成さんに槍を贈ったかたでもありますけど、富田林にいた頃は昼は寺子屋、夜は私塾を開くという多忙な日々を送っており、まったく志士の精力旺盛さには脱帽なのであります。


最後に、幕末とは関係がありませんが、私が最もお気に入りだったスポットを。

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旧杉山家住宅。

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ここは中に入れます(有料:400円)。

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石上 露子(いそのかみ・つゆこ)はご存知でしょうか。与謝野 鉄幹・晶子夫妻と関わりのあるかたで、雑誌「明星」で短歌を発表していた女流歌人です。本名は杉山 孝(すぎやま・たか)といい、彼女の生まれた杉山家は寺内町の創立時から組衆を続けてきた最も古い旧家です。建物も、土間の部分は17世紀中期のものが現存しており寺内町で最も古いといわれています。


ここのおうちが見応えバツグンで、部屋の内部や杉山家のこと、露子の人生についてはもちろん、寺内町の建築物群の目のつけどころなども映像でわかりやすく教えてくれます。映像を見た後に寺内町をもう一度散策してみると、来てすぐの時とは違った感覚を味わうことができました。


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露子が住んでいた頃に取りつけた螺旋階段。露子の住んでいた明治時代に螺旋階段が存在したのは、とても珍しいことなのだとか。



また一つ松田への愛を深くした、でうくなのでしたハート

松田を訪ねて山田を巡る

本記事は、DEUKUのブログ「植民所在地3丁目」と同時掲載している記事です。
宣言通り、松田 重助ゆかりの地を訪ねてきた旅行記を載せますよ!


今回でうくが旅をしたのは、大阪府の太子町山田 。山田は大字の一つでそれほど大きな地域というわけではないけれど、山田だけで記事一つ出来上がるほど濃密な時間を過ごせました。


太子町は奈良県香芝市および葛城市と接する大阪府最東端の町で、日本最古の国道といわれる竹内街道が通っています。最寄の駅は、近鉄南大阪線の上ノ太子(かみのたいし)駅。


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上ノ太子駅の前にある竹内街道の碑。


そもそも、何故私がこの山田に用があったかといいますと、


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松田!


この太子町山田に、松田 重助の碑があるからです。


松田についての手がかりは私の手の届く範囲では本当に少なく、既に手に入れた資料から松田の名前だけを抜き出していくという狂気じみた趣味を発動させていたのですが、根気強く松田ストーカーを続けていると、天誅組について専門的に調べておられるかたのブログに辿り着き、松田について触れられていました。

松田は天誅組のメンバーではありませんが、天誅組を財政面でも兵糧面でも支えた水郡 善之祐(にごり・ぜんのすけ)という人と親しく、追手から匿ってもらったり挙兵を打ち明けられたりしていました。ちなみにこの善之祐さん、中世宇土城の記事で触れた紀姓宇土氏と血の繋がりがあるようです。世間ってば狭くてたまに嫌になりますね!(爆)

なので、松田を天誅組の括りに入れるケースも無きにしもあらずのようです。


この松田の碑も『天忠(誅)組松田重助先生~』という名になっているとのことで、このかたの情報を元に私は山田に飛んだ。

正直、私は不安だった。松田の碑に辿り着けるのか。何故ならば、今回はマイナー度がいつもの比ではない上、モータープールの意味が私にはわからなかったからだ。

松田の碑は山田地区の仏陀寺前にあるハタモータープールに建っているという情報だったのだが、初めてその外来語に触れた私は、ハタ・モータープールなのか、ハタモーター・プールなのか、それともハ・タモーター・プールなのかそもそも言葉の区切りさえわからない。「モータープール」をGoogle mapで検索しても山田と全く別の場所が出るので、ハタモータープールは山田にはもう存在しないのでは?それともモーター(何のモーターなのかは察し)をホルマリンのプールにでも漬け込んでいる知ってはいけない場所なのでは?と想像力をたくましくしておりました。「モータープール」を関西語で「駐車場」を示すことを知ったのは悶々とし始めて1時間後のことでした。要は、 「山田地区の仏陀寺前にハタさんの運営する駐車場(ハタ駐車場)があって、その敷地内に松田の碑が建っている」 ということなのでした。うむ、日本語は深いで!

ま、モータープールの意味がわかったところで仏陀寺が地図検索で出てこなかったら辿り着けていませんでしたがね。



近鉄線で橿原神宮行きの電車に乗り、奈良方面に向かう途中で上ノ太子駅はあります。駅そのものは羽曳野市(はびきのし)に属しますが、線路を渡ると太子町という、限りなく市と郡の境。

山田地区は結構な住宅地ですが、バスの時刻表を見るとバスに乗って最寄の停留所まで行こうなんていう甘い考えは消し飛びます。かろうじて一軒、レンタサイクル屋さんが駅前の道路を挟んですぐの場所にあって、電動自転車と普通の自転車を借りることができました。私は電動自転車の使い方に自信がなくて普通の自転車にしましたが、借りるならば電動自転車が断然おすすめです。山田地区はその名の通り山を切り拓いて田んぼと住宅地にした地域なので、普通の自転車借りても半分くらいしか自転車の役目を果たしてくれません。 半分は、押して、歩く。ええ、西郷恒例の登山イベントですがなにか?(爆)


太子町の人たちは、大阪人の人懐っこさと奈良人の穏やかさを併せ持ったかたがたで、道の途中でいろいろなかたに話しかけられながら先に進みました。山田が山を切り拓いたなんて山田に住むおばあさんが教えてくれましたからね。ええ、言われるまで気づきませんでした私。



仏陀寺および松田の碑は、山田の山の頂上ともいえるところにありました。ほぼ同じといっていい場所に、太平洋戦争で徴兵され、戦死した山田地区出身のかたがたの慰霊碑もある。


仏陀寺そのものも結構有名なお寺で、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の墓( 仏陀寺古墳)が境内にあるとのこと。そがのくらやまだいしかわまろ・・・誰かよく知らんけど学校で習ったわ~。名前にインパクトがありすぎて寿限無並みにクラスメートと暗記合戦した。


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石川麻呂の墓のある仏陀寺。門は閉じていたので中に入ることは控えました。


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塀が低いので、塀の外からでも鐘つき台がはっきりと見えます。この鐘はなかなか数奇な運命を辿ってきた鐘で、大東亜戦争に伴って供出されたものが、敗戦のおかげで溶かされずそのままの姿で戻ってきたのだそう。


そして、仏陀寺の向かいが・・・


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松田!(爆)
あぁ~会いたかったよ松田!松田!(なんか違う)

松田の碑が何故こんなところにあるのかというと、これも天誅組について調べておられるかたのログからなのですが、碑のあるここ(ハタモータープール)はもと円妙寺というお寺であり、 円妙寺の僧侶の娘を松田が娶っていたからなのだそうです。えっちょっと待って、松田って既婚者だったの!?しょっく!!←

松田は池田屋事件によって京で命を落とし、その遺骸は京の三縁寺に葬られる・・・のは割と知られた話ですが、松田の死を聞いてここ円妙寺でも松田の位牌を置いていたとのこと。円妙寺は現在、大阪市に移転し、位牌もそれに合わせてそちらの方に移っているようで、こちらは 『天忠組松田重助先生位牌所跡』として地元の有志によって石碑が建てられたとのことでした。
この情報を受けて、円妙寺が大阪市にあるのかざっと検索してみると、なんと3ヶ所ありました。どれもHP等なく詳細がいまいちわからないのですが、最も大きいと思われる中央区の「円(圓)妙寺」は、大倫寺、正法寺、法雲寺、久成寺など他の寺と隣接していて、松田抜きにしてもなかなかに面白そうな感じ。寺町なのだなぁ。

松田は富田林に身を潜め、家塾を営みながら同志集めに奔走しています。それは太子町のお隣・富田林市寺内町の紹介サイトにも載っているのですが、そう、富田林はお隣の市なのですね。鉄道も、上ノ太子経由と富田林経由で違う路線が走っていて、太子町と富田林は結構離れているのです。その距離間は、徒歩にして約1時間半。まぁ、当時の感覚ではそこまで離れていないかもしれないけど、「 富田林に潜んだ」という記録にある富田林の範囲が太子町も含んでいるのかいないのかというと、どうも含んでなさそうだなぁと翌日富田林に行ってみて思いました。つまり、「富田林に潜んだ」という記録はこの太子町の円妙寺を指しているのではなく、富田林は富田林で潜んでいたと。僧侶の娘さんを娶ったということは、円妙寺の僧侶の信頼も得て匿ってもらっていたことが考えられるので、ほほう ハタモータープールは富田林に次ぐ2つ目の隠れ家かな、と思ってみたり。考えてもみれば、松田は幕府に追われて各地を転々としていたので、痕跡があちこちで出てきても別におかしくはないんですよね。

しかし、碑を見つけたはいいが、見つけても別にやることはないのでとりあえず松田の碑の右側にある脇道に入ってみる。岐阜から3時間半かけて来て碑だけ見るってどうよ。しかし鈍行でも3時間半で行けるって岐阜の交通網は何気にスゴイ。日本のへそは最強なのである。

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脇道行くとただの竹林。

このまま進むと、チェーンソーを持ったおいたんたちと鉢合わせしたので(文章に悪意あり
笑)慌てて戻り、自転車を漕いで山田の山を降りると、麓には・・・

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なんと!

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『推古天皇磯長山田陵』

推古天皇のお墓が!光栄だなぁ~松田!てか頭が高いよお前!天皇見下ろしてるよ!(爆)

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大正14年に建設された拝所。うぃ、ウィキの画像じゃな・・・!(以下略)

この拝所の奥に、推古天皇とその息子・竹田皇子が合葬されている山田高塚古墳があるそうです。古墳は完全非公開。


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太子町は推古天皇のお墓の他、敏達天皇陵・用明天皇陵・孝徳天皇陵・二子塚古墳などがある古墳のまちでして、「近(ちか)つ飛鳥」と呼ばれる飛鳥時代の空気を教えてくれます。松田が山田に痕跡を残したのも、天皇ゆかりの場所が多かったからなのかな。


松田の痕跡を辿る旅、次回は富田林寺内町をお送りします。


今回の旅で参考にさせていただいたログ:http://blogs.yahoo.co.jp/tentuji 

近況報告


スタンプ3 DEUKUです!ご訪問いただき、ありがとうございます!

実は最近、でうくもはべろんもリアルが充実しすぎててなかなかこちらに手が回らないでいます。
今後もしばらくは更新頻度が低いかもしれませんが、気長に待っててね。
 
でうくのリアルの忙しさは完全に旅行なんですけどね!旅行記は定期的に書いているので、この物見櫓にも載せたいと思います。
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